指導要領

建(けん) 学(がく) の 理(り) 念(ねん理念の学校建設学校建設の学校法人g

学校法人駒澤大学の建学の理念

駒澤(こまざわ)大学(だいがく)高等学校(こうとうがっこう) 建学(けんがく)の理念(りねん)「信(しん)誠(せい)敬愛(けいあい)」「行学(ゆきがく)一如(いちにょ)」

本校(ほんこう)は駒澤(こまざわ)大学(だいがく)と同じく(おなじく)、仏教(ぶっきょう)の教義(きょうぎ)ならびに曹洞宗(そうとうしゅう)立宗(りっしゅう)の精神(せいしん)に則り、学校(がっこう)教育(きょういく)を行って

います。建学(けんがく)の理念(りねん)も駒澤(こまざわ)大学(だいがく)と同じく、「信(しん)誠(せい)敬愛(けいあい)」「行学(ぎょうがく)一如(いちにょ)」を掲げています。

「信(しん)誠(せい)敬愛(けいあい)」 信(しん)…(・・・)教(おし)えを信じ、また自(みずか)らを信じること。 

誠(せい)…(・・・)信念(しんねん)に基(もと)づいて誠実(せいじつ)に努めること。  

敬(けい)…(・・・)自分(じぶん)自身(じしん)と他者(たしゃ)の尊厳(そんげん)を明確(めいかく)に意識(いしき)し尊重(そんちょう)すること。   

愛(あい)…(・・・)慈愛(じあい)の心(こころ)を持って自己(じこ)の学(まなび)びを周囲(しゅうい)へ還元(かんげん)していくこと。

「行学(ぎょうがく)一如(いちにょ)」 行学(ぎょうがく)…(・・・)自(みずか)らを高(たか)めるための学(まな)び(学(がく))と、

慈(いつく)しみの心(こころ)をもって積極的に社会に活かしていく実践(じっせん)(行(ぎょう))。

       一如(いちにょ)…(・・・)一体であって別のものではないこと。

仏教

仏(ぶっ)教(きょう)は、仏(ぶっ)陀(だ)の教(おし)えであり、仏(ぶっ)陀(だ)になるための教(おし)え、そして仏(ぶっ)陀(だ)として生(い)きるための教(おし)えです。仏(ぶっ)陀(だ)という名(めい)称(しょう)は古(こ)代(だい)インドの言(こと)葉(ば)である梵(ぼん)語(ご)(サンスクリット語(ご))または巴(は)語(ご)(パーリ語(ご))で、悟(さと)った者(もの)を意(い)味(み)するブッダの音(おん)写(しゃ)です。日(に)本(ほん)語(ご)では仏(ほとけ)とも呼(よ)びます。具(ぐ)体(たい)的(てき)には、この世(せ)界(かい)の真(しん)理(り)である縁(えん)起(ぎ)を悟(さと)って、慈(じ)悲(ひ)と智(ち)慧(え)を円(えん)満(まん)に具(そな)えた理(り)想(そう)的(てき)な人(じん)格(かく)者(しゃ)を意(い)味(み)します。慈(じ)悲(ひ)とは縁(えん)起(ぎ)に基(もと)づいて見(み)返(かえ)りを求(もと)めずに他(た)者(しゃ)を思(おも)いやること、智(ち)慧(え)とは縁(えん)起(ぎ)に基(もと)づいて善(ぜん)悪(あく)をわきまえて正(ただ)しく生(い)きることです。慈(じ)悲(ひ)も智(ち)慧(え)も、誰(だれ)もが生(う)まれながらに本(ほん)来(らい)持(も)っている仏(ほとけ)の心(こころ)であることから仏(ぶっ)心(しん)、または仏(ほとけ)の性(せい)質(しつ)や仏(ほとけ)となる可(か)能(のう)性(せい)という意(い)味(み)で仏(ぶっ)性(しょう)とも言(い)います。つまり仏(ぶっ)教(きょう)とは、自(じ)分(ぶん)自(じ)身(しん)の仏(ぶっ)性(しょう)を自(じ)覚(かく)して慈(じ)悲(ひ)と智(ち)慧(え)を発(はっ)揮(き)し、他(た)者(しゃ)の仏(ぶっ)性(しょう)を認(みと)めてお互(たが)いの存(そん)在(ざい)を尊(そん)重(ちょう)し合(あ)う生(い)き方(かた)の実(じっ)践(せん)です。そこから仏(ぶっ)教(きょう)は慈(じ)悲(ひ)と智(ち)慧(え)の宗(しゅう)教(きょう)とも呼(よ)ばれます。そんな仏(ほとけ)としての生(い)き方(かた)を示(しめ)されたのが仏(ぶっ)教(きょう)の開(かい)祖(そ)であるお釈(しゃ)迦(か)さまです。お釈(しゃ)迦(か)さまは、梵(ぼん)名(めい)ガウタマ・シッダールタ(巴(は)名(めい)ゴータマ・シッダッタ)といい、紀(き)元(げん)前(ぜん)五世(せい)紀(き)頃(ころ)の人(じん)物(ぶつ)で、仏(ぶっ)陀(だ)とはこのお釈(しゃ)迦(か)さまの尊(そん)称(しょう)です。お釈(しゃ)迦(か)さまの教(おし)えである仏(ぶっ)教(きょう)は、人(じん)類(るい)共(きょう)通(つう)の普(ふ)遍(へん)的(てき)な真(しん)理(り)として、世(せ)界(かい)中(じゅう)の人(ひと)々(びと)に受(う)け入(い)れられ、それぞれの国(くに)の文(ぶん)化(か)や習(しゅう)慣(かん)と共(きょう)存(ぞん)しながら、様(さま)々な宗(しゅう)派(は)が存(そん)在(ざい)していますが、全(すべ)ての仏(ぶっ)教(きょう)徒(と)に共(きょう)通(つう)する信(しん)仰(こう)の対(たい)象(しょう)は仏(ぶっ)法(ぽう)僧(そう)の三(さん)宝(ぼう)【※1】です。

【※1】三(さん)宝(ぼう)…全(すべ)ての仏(ぶっ)教(きょう)徒(と)にとって共(きょう)通(つう)の信(しん)仰(こう)の対(たい)象(しょう)である、仏(ぶっ)陀(だ)(仏(ぶつ))と、仏(ぶっ)陀(だ)の教(おし)え(法(ほう))と、仏(ぶっ)陀(だ)の教(おし)えを守(まも)り伝(つた)える者(もの)(僧(そう))。

曹洞宗

曹(そう)洞(とう)宗(しゅう)は、禅(ぜん)の修(しゅ)行(ぎょう)を中(ちゅう)心(しん)とする宗(しゅう)門(もん)です。禅(ぜん)とは、日(にち)常(じょう)の全(すべ)てを仏(ぶつ)道(どう)として全(まっと)うすることであり、仏(ほとけ)の生(い)き方(かた)を実(じっ)践(せん)することです。この禅(ぜん)の教(おし)えはお釈(しゃ)迦(か)さまに始(はじ)まり、二十八祖(そ)の菩(ぼ)提(だい)達(だる)磨(ま)によってインドから中(ちゅう)国(ごく)へと伝(つた)えられました。その後(ご)も師(し)から弟(で)子(し)へと以(い)心(しん)伝(でん)心(しん)で脈(みゃく)々(みゃく)と伝(つた)わり今(こん)日(にち)に至(いた)ります。禅(ぜん)は梵(ぼん)語(ご)ディヤーナまたは巴(は)語(ご)ジャーナの音(おん)写(しゃ)である禅(ぜん)那(な)の略(りゃく)語(ご)で、身(しん)心(しん)を安(あん)定(てい)させて調(ととの)えることを意(い)味(み)します。つまり、自(みずか)らの身(しん)心(しん)を仏(ほとけ)の身(しん)心(しん)として調(ととの)えることです。坐(ざ)禅(ぜん)は、身(み)を調(ととの)え(調(ちょう)身(しん))、息(いき)を調(ととの)え(調(ちょう)息(そく))、心(こころ)を調(ととの)え(調(ちょう)心(しん))、仏(ほとけ)として生(い)きるための基(き)本(ほん)となる修(しゅ)行(ぎょう)です。お釈(しゃ)迦(か)さまは坐(ざ)禅(ぜん)によって仏(ぶっ)陀(だ)となり、仏(ぶっ)陀(だ)として生(しょう)涯(がい)にわたり坐(ざ)禅(ぜん)を修(しゅ)行(ぎょう)されました。それにならい曹(そう)洞(とう)宗(しゅう)ではお釈(しゃ)迦(か)さまと同(おな)じくただひたすら坐(ざ)禅(ぜん)すること(只(し)管(かん)打(た)坐(ざ))を大(だい)事(じ)にしています。あてもなく坐(ざ)禅(ぜん)するのではなくて今(いま)ここで仏(ほとけ)として坐(ざ)禅(ぜん)すること、いつか悟(さと)るために修(しゅ)行(ぎょう)するのではなくて仏(ほとけ)として修(しゅ)行(ぎょう)すること自(じ)体(たい)が悟(さと)りそのもの(修(しゅ)証(しょう)一(いっ)等(とう))であるということです。曹(そう)洞(とう)宗(しゅう)の名(めい)称(しょう)は中(ちゅう)国(ごく)の二(ふた)人(り)の有(ゆう)名(めい)な禅(ぜん)僧(そう)の名(な)前(まえ)に由(ゆ)来(らい)します。曹(そう)は中(ちゅう)国(ごく)禅(ぜん)の大(たい)成(せい)者(しゃ)である曹(そう)渓(けい)慧(え)能(のう)から、洞は中(ちゅう)国(ごく)曹(そう)洞(とう)宗(しゅう)の開(かい)祖(そ)である洞(とう)山(ざん)良(りょう)价(かい)から名(な)づけられました。お釈(しゃ)迦(か)さま、菩(ぼ)提(だい)達(だる)磨(ま)、曹(そう)渓(けい)慧(え)能(のう)、洞(とう)山(ざん)良(りょう)价(かい)、これらの祖(そ)師(し)たちの流(なが)れを汲(く)んだ禅(ぜん)の教(おし)えを、鎌(かま)倉(くら)時(じ)代(だい)に日(に)本(ほん)に伝(つた)えられたのが道(どう)元(げん)禅(ぜん)師(じ)であり、その禅(ぜん)の教(おし)えを曹(そう)洞(とう)宗(しゅう)として日(に)本(ほん)に弘(ひろ)められたのが瑩(けい)山(ざん)禅(ぜん)師(じ)です。曹(そう)洞(とう)宗(しゅう)では、お釈(しゃ)迦(か)さま(仏(ぶっ)陀(だ))と、道(どう)元(げん)禅(ぜん)師(じ)(高(こう)祖(そ)=教(おし)えを伝(つた)えた祖(そ)師(し))と、瑩(けい)山(ざん)禅(ぜん)師(じ)(太(たい)祖(そ)=教(おし)えを弘(ひろ)めた祖(そ)師(し))を、一(いち)仏(ぶつ)両(りょう)祖(そ)(三(さん)尊(ぞん)仏(ぶつ))の御(ご)本(ほん)尊(ぞん)として敬(けい)慕(ぼ)しています。

三事を調える

  • 調(ちょう) 身(しん) (身(み)を調(ととの)える) 
  • 調(ちょう) 息(そく) (息(いき)を調(ととの)える) 
  • 調(ちょう) 心(しん) (心(こころ)を調(ととの)える)

駒(こま)澤(ざわ)大(だい)学(がく)高(こう)等(とう)学(がっ)校(こう)の各(かく)教(きょう)室(しつ)の正(しょう)面(めん)に掲(かか)げられているこの書(しょ)は、第(だい)四代(だい)校(こう)長(ちょう)の上(あが)野(の)慧(え)賢(けん)先(せん)生(せい)の筆(ふで)によるものです。この三(みっ)つの言(こと)葉(ば)は、坐(ざ)禅(ぜん)を体(たい)系(けい)化(か)した天(てん)台(だい)智(ち)顗(ぎ)【※1】が説(と)いた坐(ざ)禅(ぜん)の心(こころ)得(え)です。 【※1】天(てん)台(だい)智(ち)顗(ぎ)(五三八~五九八)…坐(ざ)禅(ぜん)を止(し)観(かん)として体(たい)系(けい)化(か)し、一(いっ)切(さい)経(きょう)の教(おし)えを五(ご)時(じ)八(はっ)教(きょう)に整(せい)理(り)して、その後(ご)の仏(ぶっ)教(きょう)思(し)想(そう)に多(た)大(だい)な影(えい)響(きょう)を与(あた)えたので東(とう)土(ど)の小(しょう)釈(しゃ)迦(か)とも称(しょう)され、隋(ずい)の煬(よう)帝(だい)から智(ち)者(しゃ)の称(しょう)号(ごう)を賜(たまわ)ったので智(ち)者(しゃ)大(だい)師(し)、また天(てん)台(だい)宗(しゅう)の開(かい)祖(そ)なので天(てん)台(だい)大(だい)師(し)と称(しょう)される。道(どう)元(げん)禅(ぜん)師(じ)も古(こ)今(こん)冠(かん)絶(ぜつ)の人(じん)物(ぶつ)として崇(すう)敬(けい)した。

行学の心得る得の学べ行く

一、気(き)力(りょく)を旺(おう)盛(せい)にし集(しゅう)中(ちゅう)力(りょく)を高(たか)めよう

二、目(もく)標(ひょう)を定(さだ)め日(にち)々(にち)時(じ)々(じ)の努(ど)力(りょく)を続(つづ)けよう

三、自(みずか)らを信(しん)じ自(みずか)らを厳(きび)しく律(りっ)しよう

四、師(し)友(ゆう)を敬(けい)愛(あい)し礼(れい)儀(ぎ)正(ただ)しくしよう

各(かく)教(きょう)室(しつ)の正(しょう)面(めん)に掲(かか)げられているこの四(よっ)つの「行(ぎょう)学(がく)の心(こころ)得(え)」は、第(だい)六代(だい)校(こう)長(ちょう)の若(わか)林(ばやし)元(げん)典(てん)先(せん)生(せい)の訓(くん)示(じ)です。また1966年創(そう)部(ぶ)の本(ほん)校(こう)の吹(すい)奏(そう)楽(がく)部(ぶ)は、若(わか)林(ばやし)校(こう)長(ちょう)から授(さず)かった部(ぶ)訓(くん)である、「練(れん)磨(ま)は栄(えい)光(こう)への王(おう)道(どう)也(なり)」(日(ひ)々(び)の地(じ)道(みち)な練(れん)習(しゅう)の積(つ)み重(かさ)ねが必(かなら)ず大(おお)きな成(せい)果(か)となって表(あらわ)れるという意(い)味(み))を今(いま)も大(たい)切(せつ)に活(かつ)動(どう)しています。吹(すい)奏(そう)楽(がく)部(ぶ)の皆(みな)さんは「美(うつく)しいもの・整(ととの)ったものへの感(かん)性(せい)を磨(みが)く」「練(れん)習(しゅう)場(ば)所(しょ)への感(かん)謝(しゃ)」という意(い)味(み)を込(こ)めて、日(ひ)々(び)の練(れん)習(しゅう)以(い)外(がい)にも、毎(まい)月(つき)の「全(ぜん)校(こう)舎(しゃ)清(せい)掃(そう)」、年(ねん)間(かん)二(に)度(ど)の「地(ち)域(いき)清(せい)掃(そう)」を行(おこな)っています。

礼拝

礼(らい)拝(はい)は、合(がっ)掌(しょう)して(両(りょう)手(て)を合(あ)わせて)低(てい)頭(ず)する(頭(あたま)を下(さ)げる)ことで、相(あい)手(て)に最(さい)上(じょう)の敬(けい)意(い)を表(あらわ)す仏(ぶっ)教(きょう)の作(さ)法(ほう)です。もともとは古(こ)代(だい)インドの挨(あい)拶(さつ)でしたが、今(こん)日(にち)でも仏(ぶっ)教(きょう)国(こく)を中(ちゅう)心(しん)に礼(らい)拝(はい)の文(ぶん)化(か)は伝(つた)えられています。本(ほん)校(こう)では全(ぜん)校(こう)集(しゅう)会(かい)の法(ほう)要(よう)や、校(こう)内(ない)各(かく)所(しょ)にお祀(まつ)りしている仏(ほとけ)さまを拝(おが)む際(さい)など、礼(らい)拝(はい)の機(き)会(かい)が多(おお)くあります。右(みぎ)手(て)は仏(ほとけ)、左(ひだり)手(て)は己(おのれ)を表(あらわ)し、それが一(ひと)つとなった合(がっ)掌(しょう)は自(じ)己(こ)の仏(ぶっ)性(しょう)が表(あらわ)れた姿(すがた)です。また相(あい)手(て)に礼(らい)拝(はい)することは、相(あい)手(て)の仏(ぶっ)性(しょう)を認(みと)めて尊(そん)重(ちょう)し、相(あい)手(て)を決(けっ)して軽(かろ)んじないという仏(ぶっ)教(きょう)の精(せい)神(しん)を表(あらわ)します。

校(こう)内(ない)の仏(ほとけ)さま

〇観(かん)世(ぜ)音(おん)菩(ぼ)薩(さつ) … 玄(げん)関(かん)の観(かん)音(のん)堂(どう)

〇文(もん)殊(じゅ)師(し)利(り)菩(ぼ)薩(さつ) … 屋(おく)上(じょう)の坐(ざ)禅(ぜん)堂(どう)

〇釈(しゃ)迦(か)牟(む)尼(に)仏(ぶつ)・道(どう)元(げん)禅(ぜん)師(じ)・瑩(けい)山(ざん)禅(ぜん)師(じ) … 体(たい)育(いく)館(かん)の壇(だん)上(じょう)

〇地(じ)蔵(ぞう)菩(ぼ)薩(さつ) … 職(しょく)員(いん)室(しつ)前(まえ)の中(なか)庭(にわ)

〇韋(い)駄(だ)天(てん) … 調(ちょう)理(り)実(じっ)習(しゅう)室(しつ)

〇烏(う)枢(す)沙(さ)摩(ま)明(みょう)王(おう) … 新(しん)館(かん)のトイレ 

〇白(はく)山(さん)妙(みょう)理(り)大(だい)権(ごん)現(げん) … 宗(しゅう)教(きょう)科(か)研(けん)究(きゅう)室(しつ)))

南無

 南(な)無(む)とは、梵(ぼん)語(ご)ナモの音(おん)写(しゃ)で、帰(き)依(え)や帰(き)命(みょう)頂(ちょう)礼(らい)とも漢(かん)訳(やく)され、相(あい)手(て)への最(さい)上(じょう)の尊(そん)敬(けい)を表(あらわ)し、また相(あい)手(て)と自(じ)分(ぶん)とが一(ひと)つであることを意(い)味(み)する言(こと)葉(ば)です。仏(ぶっ)教(きょう)徒(と)の祈(いの)りの言(こと)葉(ば)として用(もち)いられ、宗(しゅう)派(は)を問(と)わず、仏(ぶっ)法(ぽう)僧(そう)の三(さん)宝(ぼう)を始(はじ)めとして、礼(らい)拝(はい)する仏(ぶつ)像(ぞう)や経(きょう)典(てん)や祖(そ)師(し)の名(めい)称(しょう)に冠(かん)して「南(な)無(む)〇〇」という形(けい)式(しき)で唱(とな)えられます。インドやネパールの挨(あい)拶(さつ)として知(し)られる「ナマステー」や「ナマスカール」も意(い)味(み)は相(あい)手(て)への敬(けい)意(い)を表(あらわ)し、語(ご)源(げん)は「南(な)無(む)」と同(おな)じです。

各(かく)宗(しゅう)派(は)の主(おも)なお唱(とな)え

〇南(な)無(む)釈(しゃ)迦(か)牟(む)尼(に)仏(ぶつ) … 曹(そう)洞(とう)宗(しゅう)・臨(りん)済(ざい)宗(しゅう) 意(い)味(み)=釈(しゃ)迦(か)牟(む)尼(に)仏(ぶつ)に帰(き)依(え)します

〇南(な)無(む)阿(あ)弥(み)陀(だ)仏(ぶつ) … 天(てん)台(だい)宗(しゅう)・浄(じょう)土(ど)宗(しゅう)・浄(じょう)土(ど)真(しん)宗(しゅう) 意(い)味(み)=阿(あ)弥(み)陀(だ)仏(ぶつ)に帰(き)依(え)します

〇南(な)無(む)妙(みょう)法(ほう)蓮(れん)華(げ)経(きょう) … 天(てん)台(だい)宗(しゅう)・日(にち)蓮(れん)宗(しゅう) 意(い)味(み)=『妙(みょう)法(ほう)蓮(れん)華(げ)経(きょう)』(『法(ほ)華(け)経(きょう)』)に帰(き)依(え)します

〇南(な)無(む)大(だい)師(し)遍(へん)照(じょう)金(こん)剛(ごう) … 真(しん)言(ごん)宗(しゅう) 意(い)味(み)=弘(こう)法(ぼう)大(だい)師(し)(空(くう)海(かい))に帰(き)依(え)します 

〇南(な)無(む)三(さん)宝(ぼう) … 各(かく)宗(しゅう)派(は)共(きょう)通(つう) 意(い)味(み)=三(さん)宝(ぼう)(仏(ぶっ)法(ぽう)僧(そう))に帰(き)依(え)します

〇南(な)無(む)観(かん)世(ぜ)音(おん)菩(ぼ)薩(さつ) … 各(かく)宗(しゅう)派(は)共(きょう)通(つう) 意(い)味(み)=観(かん)世(ぜ)音(おん)菩(ぼ)薩(さつ)に帰(き)依(え)します。

校門拝礼

本(ほん)校(こう)では登(とう)下(げ)校(こう)の際(さい)に校(こう)門(もん)で学(がっ)校(こう)に向(む)かって拝(はい)礼(れい)(一(いち)礼(れい))をします。これは校(こう)内(ない)各(かく)所(しょ)にお祀(まつ)りしている仏(ほとけ)さまへの礼(らい)拝(はい)の意(い)味(み)と、行(ぎょう)学(がく)を通(つう)じて自(じ)分(ぶん)自(じ)身(しん)を育(そだ)てる修(しゅ)行(ぎょう)道(どう)場(じょう)でもある学(がっ)校(こう)という環(かん)境(きょう)と、同(どう)級(きゅう)生(せい)や先(せん)輩(ぱい)後(こう)輩(はい)を含(ふく)めて、そこで役(やく)割(わり)を果(は)たしている様(さま)々(ざま)な立(たち)場(ば)の人(ひと)々(びと)への礼(れい)儀(ぎ)を表(あらわ)す意(い)味(み)があります。

仏教専修科

 曹(そう)洞(とう)宗(しゅう)の僧(そう)侶(りょ)を養(よう)成(せい)する学(がっ)校(こう)でもある本(ほん)校(こう)ならではのコースで、所(しょ)属(ぞく)する生(せい)徒(と)を宗(しゅう)内(ない)生(せい)と言(い)います。普(ふ)段(だん)は一(いっ)般(ぱん)の生(せい)徒(と)と同(おな)じくクラスに在(ざい)籍(せき)していますが、放(ほう)課(か)後(ご)は坐(ざ)禅(ぜん)堂(どう)において、仏(ぶっ)教(きょう)のより専(せん)門(もん)的(てき)な学(がく)習(しゅう)、僧(そう)侶(りょ)としての修(しゅ)行(ぎょう)を行(おこな)っています。主(おも)な活(かつ)動(どう)としては、学(がっ)校(こう)の仏(ぶっ)教(きょう)行(ぎょう)事(じ)の運(うん)営(えい)、仏(ぶっ)教(きょう)主(しゅ)義(ぎ)学(がっ)校(こう)連(れん)盟(めい)の諸(しょ)行(ぎょう)事(じ)への参(さん)加(か)、祖(そ)跡(せき)巡(じゅん)拝(ぱい)(京(きょう)都(と)・北(ほく)陸(りく)・その他(た))などを通(つう)じて、仏(ぶっ)教(きょう)と曹(そう)洞(とう)宗(しゅう)への理(り)解(かい)を深(ふか)めます。将(しょう)来(らい)、曹(そう)洞(とう)宗(しゅう)の僧(そう)侶(りょ)になることを志(し)望(ぼう)する生(せい)徒(と)は、在(ざい)学(がく)中(ちゅう)に所(しょ)定(てい)の修(しゅ)行(ぎょう)を修(しゅう)了(りょう)すれば卒(そつ)業(ぎょう)時(じ)に資(し)格(かく)が取(しゅ)得(とく)できます。また、駒(こま)澤(ざわ)大(だい)学(がく)には仏(ぶっ)教(きょう)学(がく)部(ぶ)があるため、本(ほん)校(こう)で仏(ぶっ)教(きょう)に興(きょう)味(み)を持(も)ち、仏(ぶっ)教(きょう)をより深(ふか)く学(まな)んでみたいという、僧(そう)侶(りょ)ではない一(いっ)般(ぱん)生(せい)徒(と)も宗(しゅう)内(ない)活(かつ)動(どう)に参(さん)加(か)することができますので、仏(ぶっ)教(きょう)の授(じゅ)業(ぎょう)の担(たん)当(とう)教(きょう)員(いん)に直(ちょく)接(せつ)お問(と)い合(あ)わせください。

食事訓

本(ほん)校(こう)では、四時(じ)間(かん)目(め)の終(しゅう)了(りょう)後(ご)、全(ぜん)校(こう)放(ほう)送(そう)に合(あ)わせて『五(ご)観(かん)の偈(げ)』を唱(しょう)和(わ)してから昼(ちゅう)食(しょく)を頂(いただ)きます。食(た)べることは生(い)きることに直(ちょっ)結(けつ)しています。また、食(た)べ方(かた)は生(い)き方(かた)にも通(つう)じることから、仏(ぶっ)教(きょう)では食(しょく)事(じ)をすることも大(だい)事(じ)な修(しゅ)行(ぎょう)の一(ひと)つなのです。

『 五(ご) 観(かん) の 偈(げ) 』
一(ひと)つには功(こう)の多(た)少(しょう)を計(はか)り、彼(か)の来(らい)処(しょ)を量(はか)る。
この食(しょく)事(じ)が出(で)来(き)上(あ)がるまでの経(けい)緯(い)に思(おも)いを馳(は)せて、
様(さま)々(ざま)な人(ひと)々(びと)の働(はたら)きや食(しょく)材(ざい)となった生(いの)命(ち)に感(かん)謝(しゃ)して
いただきます。


二(ふた)つには己(おのれ)が徳(とく)行(ぎょう)の、全(ぜん)欠(けつ)を忖(はか)って供(く)に応(おう)ず。
この食(しょく)事(じ)をいただくのに値(あたい)するような、
正(ただ)しい生(い)き方(かた)ができているかどうかをよく反(はん)省(せい)してから
いただきます。


三(み)つには心(しん)を防(ふせ)ぎ過(とが)を離(はな)るることは、貪(とん)等(とう)を宗(しゅう)とす。
この食(しょく)事(じ)によって仏(ぶつ)道(どう)の修(しゅ)行(ぎょう)に励(はげ)み、
煩(ぼん)悩(のう)の三(さん)毒(どく)(貪(とん)欲(よく)・瞋(しん)恚(に)・愚(ぐ)癡(ち))を鎮(しず)めるために
いただきます。


四(よ)つには正(まさ)に良(りょう)薬(やく)を事(こと)とするは、形(ぎょう)枯(こ)を療(りょう)ぜんが為(ため)なり。
この食(しょく)事(じ)は身(しん)心(しん)の健(けん)康(こう)を保(たも)つことが目(もく)的(てき)であり、
暴(ぼう)飲(いん)暴(ぼう)食(しょく)をせずに本(ほん)当(とう)に必(ひつ)要(よう)な分(ぶん)だけを
ありがたくいただきます。


五(いつ)つには成(じょう)道(どう)の為(ため)の故(ゆえ)に、今(いま)此(こ)の食(じき)を受(う)く。
この食(しょく)事(じ)を通(つう)じて仏(ぶつ)道(どう)を達(たっ)成(せい)することを理(り)想(そう)とし、
私(わたし)の生(い)き方(かた)が生(い)きとし生(い)ける者(もの)の功(く)徳(どく)となることを願(ねが)っていただきます。

)

『典(てん)座(ぞ)教(きょう)訓(くん)』道(どう)元(げん)禅(ぜん)師(じ

法要

( 二(に) 祖(そ) 三(さん) 仏(ぶつ) 会(え) ・ 真(しん) 前(ぜん) 報(ほう) 告(こく) )

  • 四月  降(ごう)誕(たん)会(え)(はなまつり)、真(しん)前(ぜん)報(ほう)告(こく)(入(にゅう)学(がく)式(しき))
  • 七月  盂(う)蘭(ら)盆(ぼん)会(え)(みたままつり)
  • 九月  両(りょう)祖(そ)忌(き)
  • 十月  達(だる)磨(ま)忌(き)
  • 十二月 成(じょう)道(どう)会(え)
  • 二月  涅(ね)槃(はん)会(え)
  • 三月   真(しん)前(ぜん)報(ほう)告(こく)(卒(そつ)業(ぎょう)式(しき))

導(どう)師(し)(駒(こま)澤(ざわ)大(だい)学(がく)総(そう)長(ちょう)) 侍(じ)者(しゃ)(駒(こま)澤(ざわ)大(だい)学(がく)職(しょく)員(いん))

法(ほう)要(よう)配(はい)役(やく)(駒(こま)澤(ざわ)大(だい)学(がく)高(こう)等(とう)学(がっ)校(こう)仏(ぶっ)教(きょう)専(せん)修(しゅう)科(か))

法要差定

( 曹(そう) 洞(とう) 宗(しゅう) 「 本(ほん) 尊(ぞん) 上(じょう) 供(ぐ) 」 )

一、 導(どう) 師(し) 入(にゅう) 堂(どう)

一、 本(ほん) 尊(ぞん) 礼(らい) 拝(はい)

一、 献(けん) 香(こう) 献(けん) 花(か)

一、 拈(ねん) 香(こう) 法(ほう) 語(ご)

一、 普(ふ) 同(どう) 三(さん) 拝(ぱい)

一、 般(はん) 若(にゃ) 心(しん) 経(ぎょう)

一、 回(え) 向(こう)    

一、 普(ふ) 同(どう) 三(さん) 拝(ぱい)

一、 導(どう) 師(し) 退(たい) 堂(どう)

一、 本(ほん) 尊(ぞん) 礼(らい) 拝(はい) 

はなまつりの言葉

桜の花が咲き誇り、私たちは今年も花祭の日を迎えました。この花祭は、お釈迦さまのお誕生をお祝いするための法要です。今から約二千五百年程前の古代印度で、迦毘羅城を治める釈迦族の悉陀太子が、藍毘尼の花園に誕生されました。その人こそ、後に出家して悟りを開き、仏陀となられたお釈迦さまです。今日、この花御堂の中にお祀りされたお釈迦さまのお誕生のお姿は、右手で天を指し、左手で地を指しておられます。これは「天上天下唯我独尊」、つまり私たちは誰もがすばらしい仏の心を持っている、というお釈迦さまの教えを表しています。人は皆、他者を思いやる慈悲の心と、正しく生きる智慧の心を持っています。この慈悲と智慧は、私たちに本来具わっている仏の心です。その仏の心を発揮して、慈悲を行い、智慧を学び、仏の自覚をもって生きることが大事なのだとお釈迦さまは示されました。本日、花祭の法要を行い、お釈迦さまのお誕生をお祝いして、その徳を称え、その教えを思い出して、私たちは心を新たに致します。そして、仏教を建学の理念とする駒澤大学高等学校の生徒として、日々の生活の中で、慈悲を行い、智慧を学び、仏の生き方を実践する行学一如を体現していくことを、仏・法・僧の三宝の御前に誓います。

みたままつりの言葉

 青葉の美しい季節となり、私たちは今年も御霊祭の日を迎えました。お盆が近づくにつれ、関わりのあった今は亡き人々が懐かしく思い出され、特に新盆を迎える方には故人への想いが一層募ることと思います。このお盆の行事は、お釈迦さまの弟子の目連尊者が、亡き母の冥福を祈る方法を、お釈迦さまに尋ねたことに由来します。お釈迦さまは「あらゆる存在の幸せを願う修行僧たちの、修行の期間が明ける七月十五日に、真心を込めて食事を供養して、その善行の功徳を亡き母の冥福のために回向してもらいなさい。」と目連尊者に説かれました。私たちはこのように亡き人に代わって徳を積み、その功徳を亡き人へと手向けて、冥福を祈ることができます。今を生きる私が善い行いをすることは、そんな私をこの世に送り出すために過去に存在した全てのご先祖さま方にとっても功徳となるのです。この追善供養の教えからお盆の習慣が始まりました。お盆を迎えるにあたって、私たちの背景には今は亡き大勢の人々が存在したことに想いを馳せ、感謝の祈りを捧げます。そして、仏教を建学の理念とする駒澤大学高等学校の生徒として、日々の生活の中で、慈悲を行い、智慧を学び、行学一如を体現していくことを、仏・法・僧の三宝の御前に誓います。


法(ほう) 要(よう) の 由(ゆ) 来(らい)

はなまつり(降誕会・灌仏会・仏生会)

はなまつりは、お釈(しゃ)迦(か)さまの誕(たん)生(じょう)を祝(いわ)う法(ほう)要(よう)です。日(に)本(ほん)では、ちょうど桜(さくら)の花(はな)の季(き)節(せつ)であるため花(はな)祭(まつり)と呼(よ)ばれますが、正(せい)式(しき)には降(ごう)誕(たん)会(え)・仏(ぶっ)生(しょう)会(え)・潅(かん)仏(ぶつ)会(え)とも言(い)います。お釈(しゃ)迦(か)さまは藍(らん)毘(び)尼(に)園(おん)(ルンビニーの花(はな)園(ぞの))の無(む)憂(ゆう)樹(じゅ)(アショーカの樹(き))の下(もと)で四月八日に誕(たん)生(じょう)されました。仏(ぶつ)伝(でん)では、生(う)まれたばかりのお釈(しゃ)迦(か)さまが、「天(てん)上(じょう)天(てん)下(げ)唯(ゆい)我(が)独(どく)尊(そん)」と唱(とな)えると、龍(りゅう)が天(てん)から甘(かん)露(ろ)の雨(あめ)を降(ふ)らして祝(しゅく)福(ふく)したといいます。その伝(でん)説(せつ)にちなみ、はなまつりでは花(はな)御(み)堂(どう)の中(なか)に誕(たん)生(じょう)仏(ぶつ)の仏(ぶつ)像(ぞう)をお祀(まつ)りし、甘(あま)茶(ちゃ)を潅(そそ)いでお詣(まい)りします。法(ほう)要(よう)後(ご)、本(ほん)館(かん)玄(げん)関(かん)ロビーに花(はな)御(み)堂(どう)が設(せっ)置(ち)されますので、お釈(しゃ)迦(か)さまの誕(たん)生(じょう)仏(ぶつ)に甘(あま)茶(ちゃ)を潅(そそ)いでご参(さん)拝(ぱい)ください。

みたままつり(盂蘭盆会)

みたままつりは、今(いま)は亡(な)き有(う)縁(えん)無(む)縁(えん)の人(ひと)々(びと)の冥(めい)福(ふく)を祈(いの)るための法(ほう)要(よう)です。一(いっ)般(ぱん)にはお盆(ぼん)と呼(よ)ばれていますが、正(せい)式(しき)には盂(う)蘭(ら)盆(ぼん)会(え)と言(い)います。盂(う)蘭(ら)は梵(ぼん)語(ご)オーダナ(ご飯(はん))の口(こう)語(ご)オーランの音(おん)写(しゃ)で、盆(ぼん)は食(しょく)事(じ)を盛(も)る食(しょっ)器(き)のことです。盂(う)蘭(ら)盆(ぼん)会(え)は、お釈(しゃ)迦(か)さまの弟(で)子(し)の目(もく)連(れん)尊(そん)者(じゃ)(マウドガリヤーヤナ)が亡(な)き母(はは)の冥(めい)福(ふく)を祈(いの)る方(ほう)法(ほう)をお釈(しゃ)迦(か)さまに尋(たず)ね、夏(なつ)の安(あん)居(ご)(修(しゅ)行(ぎょう))が終(お)わる七月十五日に仲(なか)間(ま)の修(しゅ)行(ぎょう)僧(そう)たちに食(しょく)事(じ)を供(く)養(よう)して、その善(ぜん)行(ぎょう)の功(く)徳(どく)を亡(な)き母(はは)の冥(めい)福(ふく)のために回(え)向(こう)してもらった追(つい)善(ぜん)供(く)養(よう)の故(こ)事(じ)に由(ゆ)来(らい)します。法(ほう)要(よう)後(ご)、本(ほん)館(かん)玄(げん)関(かん)ロビーの観(かん)音(のん)堂(どう)でお焼(しょう)香(こう)できますので、有(う)縁(えん)無(む)縁(えん)の御(み)霊(たま)を偲(しの)んでご自(じ)由(ゆう)にご参(さん)拝(ぱい)ください。

両祖忌

両(りょう)祖(そ)忌(き)は、日(に)本(ほん)の曹(そう)洞(とう)宗(しゅう)の高(こう)祖(そ)・道(どう)元(げん)禅(ぜん)師(じ)と太(たい)祖(そ)・瑩(けい)山(ざん)禅(ぜん)師(じ)の両(りょう)祖(そ)さまのご命(めい)日(にち)を偲(しの)ぶ法(ほう)要(よう)です。道(どう)元(げん)禅(ぜん)師(じ)は建(けん)長(ちょう)五年(ねん)(一二五三)八月二十八日に、瑩(けい)山(ざん)禅(ぜん)師(じ)は正(しょう)中(ちゅう)二年(ねん)(一三二五)八月十五日に示(じ)寂(じゃく)されましたが、どちらも太(たい)陽(よう)暦(れき)では九月二十九日になるので、この日(ひ)を両(りょう)祖(そ)さまのご命(めい)日(にち)として、曹(そう)洞(とう)宗(しゅう)の寺(じ)院(いん)では両(りょう)祖(そ)忌(き)の法(ほう)要(よう)が営(いとな)まれます。

達磨忌

 達(だる)磨(ま)忌(き)は、達(だる)磨(ま)大(だい)師(し)のご命(めい)日(にち)を偲(しの)ぶ法(ほう)要(よう)です。達(だる)磨(ま)大(だい)師(し)は梵(ぼん)名(めい)ボーディ・ダルマと言(い)います。お釈(しゃ)迦(か)さまから二十八代(だい)目(め)の祖(そ)師(し)で、インドから中(ちゅう)国(ごく)へと渡(わた)ってお釈(しゃ)迦(か)さまの坐(ざ)禅(ぜん)を伝(つた)えました。中(ちゅう)国(ごく)では禅(ぜん)宗(しゅう)の初(しょ)祖(そ)とされ、円(えん)覚(がく)大(だい)師(し)菩(ぼ)提(だい)達(だる)磨(ま)大(だい)和(お)尚(しょう)と称(しょう)されます。嵩(すう)山(ざん)少(しょう)林(りん)寺(じ)での面(めん)壁(ぺき)九(く)年(ねん)(九年間ひたすら壁(かべ)に面(めん)して坐(ざ)禅(ぜん)を修(しゅ)行(ぎょう)したこと)の逸(いつ)話(わ)は有(ゆう)名(めい)です。達(だる)磨(ま)大(だい)師(し)の禅(ぜん)の教(おし)えは壁(へき)観(かん)と呼(よ)ばれ、黙(もく)々(もく)と壁(かべ)に向(む)かい、ただひたすら坐(ざ)禅(ぜん)すること、つまり理(り)屈(くつ)を作(つく)って自(じ)己(こ)主(しゅ)張(ちょう)したり、他(た)人(にん)の評(ひょう)価(か)に振(ふ)り回(まわ)されたりせずに、今(いま)すべき正(ただ)しいことをただ黙(だま)って実(じっ)行(こう)することが、仏(ぶつ)道(どう)修(しゅ)行(ぎょう)においては何(なに)よりも大(だい)事(じ)であることを示(しめ)しています。

成道会

成(じょう)道(どう)会(え)は、お釈(しゃ)迦(か)さまが悟(さと)った日(ひ)を祝(いわ)う法(ほう)要(よう)です。お釈(しゃ)迦(か)さまは、仏(ぶっ)陀(だ)伽(が)耶(や)(ブッダガヤー)の菩(ぼ)提(だい)樹(じゅ)(アシュヴァッタの樹(き))の下(もと)で身(しん)心(じん)を調(ととの)えて、十二月一日から八日の明(あ)け方(がた)にかけて坐(ざ)禅(ぜん)をして仏(ぶっ)陀(だ)となりました。仏(ぶつ)伝(でん)では、お釈(しゃ)迦(か)さまは悟(さと)った時(とき)に大(だい)地(ち)に触(ふ)れて「我(われ)と大(だい)地(ち)と有(う)情(じょう)と同(どう)時(じ)に成(じょう)道(どう)す」と述(の)べたと伝(つた)わります。これはお釈(しゃ)迦(か)さまが究(きゅう)極(きょく)の真(しん)理(り)である縁(えん)起(ぎ)を悟(さと)って人(じん)生(せい)の苦(く)を克(こく)服(ふく)したことを示(しめ)しています。お釈(しゃ)迦(か)さまはその後(ご)、鹿(ろく)野(や)苑(おん)(サールナート)で初(しょ)転(てん)法(ぼう)輪(りん)(最(さい)初(しょ)の説(せっ)法(ぽう))を行(おこな)い、そこから仏(ぶっ)教(きょう)が始(はじ)まったのでした。

涅槃会

涅(ね)槃(はん)会(え)は、お釈(しゃ)迦(か)さまのご命(めい)日(にち)を偲(しの)ぶ法(ほう)要(よう)です。涅(ね)槃(はん)とは梵(ぼん)語(ご)ニルヴァーナの音(おん)写(しゃ)で、火(ひ)が吹(ふ)き消(け)された状(じょう)態(たい)を意(い)味(み)します。そこから、煩(ぼん)悩(のう)の火(ひ)が消(き)えた悟(さと)りの状(じょう)態(たい)、またはお釈(しゃ)迦(か)さまの命(いのち)の火(ひ)が消(き)えて亡(な)くなったことを意(い)味(み)するようになりました。お釈(しゃ)迦(か)さまは最(さい)期(ご)の遊(ゆ)行(ぎょう)(修(しゅ)行(ぎょう)の旅(たび))の途(と)中(ちゅう)で「自(じ)帰(き)依(え) 法(ほう)帰(き)依(え)」を説(と)くと、純(じゅん)陀(だ)(チュンダ)の食(しょく)事(じ)の供(く)養(よう)を受(う)けた後(あと)、拘(く)稀(ち)羅(ら)城(じょう)(クシナガラ)の、四(し)方(ほう)に沙(さ)羅(ら)双(そう)樹(じゅ)(二(に)本(ほん)のサーラの樹(き))が生(は)えた場(ば)所(しょ)で最(さい)期(ご)を迎(むか)え、嘆(なげ)き悲(かな)しむ弟(で)子(し)たちに「八(はち)大(だい)人(にん)覚(がく)」の教(おし)えを遺(のこ)して二月十五日の夜(よる)に入(にゅう)滅(めつ)されました。

臘八摂心

臘(ろう)八(はつ)とは臘(ろう)月(げつ)(十二月)の八日間のこと、摂(せっ)心(しん)とは心(こころ)を摂(おさ)めて坐(ざ)禅(ぜん)することです。お釈(しゃ)迦(か)さまが十二月一日から八日にかけて、菩(ぼ)提(だい)樹(じゅ)の下(もと)で坐(ざ)禅(ぜん)をして「縁(えん)起(ぎ)」を悟(さと)り、成(じょう)道(どう)(修(しゅ)行(ぎょう)と悟(さと)りを成(じょう)就(じゅ))されたという故(こ)事(じ)にちなみ、日(に)本(ほん)の禅(ぜん)寺(でら)では、毎(まい)年(とし)、この時(じ)期(き)に八日間の坐(ざ)禅(ぜん)と成(じょう)道(どう)会(え)の法(ほう)要(よう)を修(しゅ)行(ぎょう)します。駒(こま)澤(ざわ)大(だい)学(がく)高(こう)等(とう)学(がっ)校(こう)でも、それにならって全(ぜん)校(こう)生(せい)徒(と)と全(ぜん)教(きょう)職(しょく)員(いん)の希(き)望(ぼう)者(しゃ)を対(たい)象(しょう)に、毎(まい)年(とし)、十二月の最(さい)初(しょ)の一(いっ)週(しゅう)間(かん)、有(ゆう)志(し)の仏(ぶっ)教(きょう)専(せん)修(しゅう)科(か)の卒(そつ)業(ぎょう)生(せい)や曹(そう)洞(とう)宗(しゅう)寺(じ)院(いん)および曹(そう)洞(とう)宗(しゅう)総(そう)合(ごう)研(けん)究(きゅう)センターの僧(そう)侶(りょ)の方(かた)々(がた)のボランティアのもと、体(たい)育(いく)館(かん)で臘(ろう)八(はつ)摂(せっ)心(しん)を修(しゅ)行(ぎょう)しています。

本山拝登

)曹(そう)洞(とう)宗(しゅう)の大(だい)本(ほん)山(ざん)は、道(どう)元(げん)禅(ぜん)師(じ)が開(ひら)かれた永(えい)平(へい)寺(じ)と、瑩(けい)山(ざん)禅(ぜん)師(じ)が開(ひら)かれた總(そう)持(じ)寺(じ)です。駒(こま)澤(ざわ)大(だい)学(がく)高(こう)等(とう)学(がっ)校(こう)では、毎(まい)年(とし)、本(ほん)校(こう)の原(げん)点(てん)でもあるこの両(りょう)大(だい)本(ほん)山(ざん)を拝(はい)登(とう)して、両(りょう)祖(そ)さまに参(さん)拝(ぱい)し、禅(ぜん)の修(しゅ)行(ぎょう)を体(たい)験(けん)します。両(りょう)大(だい)本(ほん)山(ざん)には、全(すべ)ての生(い)きとし生(い)ける者(もの)の幸(しあわ)せを日(ひ)々(び)祈(いの)りながら、俗(ぞく)世(せ)を離(はな)れて厳(きび)しい修(しゅ)行(ぎょう)に励(はげ)んでいる雲(うん)水(すい)(禅(ぜん)寺(でら)の修(しゅ)行(ぎょう)僧(そう))の方(かた)々(がた)が実(じっ)際(さい)におられます。その中(なか)にほんの一(ひと)時(とき)お邪(じゃ)魔(ま)させて頂(いただ)くのだということを忘(わす)れず、また私(わたし)たちを善(ぜん)意(い)で受(う)け入(い)れて下(くだ)さっていることに感(かん)謝(しゃ)して、真(しん)摯(し)な気(き)持(も)ちで本(ほん)山(ざん)拝(はい)登(とう)に臨(のぞ)みましょう。