指導要領

(けん) (がく) の () (ねん理念の学校建設学校建設の学校法人g

学校法人駒澤大学の建学の理念

駒澤(こまざわ)大学(だいがく)高等学校(こうとうがっこう) 建学(けんがく)理念(りねん)(しん)(せい)敬愛(けいあい)」「行学(ゆきがく)一如(いちにょ)

本校(ほんこう)駒澤(こまざわ)大学(だいがく)同じく(おなじく)仏教(ぶっきょう)教義(きょうぎ)ならびに曹洞宗(そうとうしゅう)立宗(りっしゅう)精神(せいしん)に則り、学校(がっこう)教育(きょういく)を行って

います。建学(けんがく)理念(りねん)駒澤(こまざわ)大学(だいがく)と同じく、「(しん)(せい)敬愛(けいあい)」「行学(ぎょうがく)一如(いちにょ)」を掲げています。

(しん)(せい)敬愛(けいあい)」 (しん)(・・・)(おし)えを信じ、また(みずか)らを信じること。 

(せい)(・・・)信念(しんねん)(もと)づいて誠実(せいじつ)に努めること。  

(けい)(・・・)自分(じぶん)自身(じしん)他者(たしゃ)尊厳(そんげん)明確(めいかく)意識(いしき)尊重(そんちょう)すること。   

(あい)(・・・)慈愛(じあい)(こころ)を持って自己(じこ)(まなび)びを周囲(しゅうい)還元(かんげん)していくこと。

行学(ぎょうがく)一如(いちにょ)」 行学(ぎょうがく)(・・・)(みずか)らを(たか)めるための(まな)び((がく))と、

(いつく)しみの(こころ)をもって積極的に社会に活かしていく実践(じっせん)((ぎょう))。

       一如(いちにょ)(・・・)一体であって別のものではないこと。

仏教

(ぶっ)(きょう)は、(ぶっ)()(おし)えであり、(ぶっ)()になるための(おし)え、そして(ぶっ)()として()きるための(おし)えです。(ぶっ)()という(めい)(しょう)()(だい)インドの(こと)()である(ぼん)()(サンスクリット())または()()(パーリ())で、(さと)った(もの)()()するブッダの(おん)(しゃ)です。()(ほん)()では(ほとけ)とも()びます。()(たい)(てき)には、この()(かい)(しん)()である(えん)()(さと)って、()()()()(えん)(まん)(そな)えた()(そう)(てき)(じん)(かく)(しゃ)()()します。()()とは(えん)()(もと)づいて()(かえ)りを(もと)めずに()(しゃ)(おも)いやること、()()とは(えん)()(もと)づいて(ぜん)(あく)をわきまえて(ただ)しく()きることです。()()()()も、(だれ)もが()まれながらに(ほん)(らい)()っている(ほとけ)(こころ)であることから(ぶっ)(しん)、または(ほとけ)(せい)(しつ)(ほとけ)となる()(のう)(せい)という()()(ぶっ)(しょう)とも()います。つまり(ぶっ)(きょう)とは、()(ぶん)()(しん)(ぶっ)(しょう)()(かく)して()()()()(はっ)()し、()(しゃ)(ぶっ)(しょう)(みと)めてお(たが)いの(そん)(ざい)(そん)(ちょう)()()(かた)(じっ)(せん)です。そこから(ぶっ)(きょう)()()()()(しゅう)(きょう)とも()ばれます。そんな(ほとけ)としての()(かた)(しめ)されたのが(ぶっ)(きょう)(かい)()であるお(しゃ)()さまです。お(しゃ)()さまは、(ぼん)(めい)ガウタマ・シッダールタ(()(めい)ゴータマ・シッダッタ)といい、()(げん)(ぜん)(せい)()(ころ)(じん)(ぶつ)で、(ぶっ)()とはこのお(しゃ)()さまの(そん)(しょう)です。お(しゃ)()さまの(おし)えである(ぶっ)(きょう)は、(じん)(るい)(きょう)(つう)()(へん)(てき)(しん)()として、()(かい)(じゅう)(ひと)(びと)()()れられ、それぞれの(くに)(ぶん)()(しゅう)(かん)(きょう)(ぞん)しながら、(さま)(しゅう)()(そん)(ざい)していますが、(すべ)ての(ぶっ)(きょう)()(きょう)(つう)する(しん)(こう)(たい)(しょう)(ぶっ)(ぽう)(そう)(さん)(ぼう)【※1】です。

【※1】(さん)(ぼう)(すべ)ての(ぶっ)(きょう)()にとって(きょう)(つう)(しん)(こう)(たい)(しょう)である、(ぶっ)()((ぶつ))と、(ぶっ)()(おし)え((ほう))と、(ぶっ)()(おし)えを(まも)(つた)える(もの)(そう))。

曹洞宗

(そう)(とう)(しゅう)は、(ぜん)(しゅ)(ぎょう)(ちゅう)(しん)とする(しゅう)(もん)です。(ぜん)とは、(にち)(じょう)(すべ)てを(ぶつ)(どう)として(まっと)うすることであり、(ほとけ)()(かた)(じっ)(せん)することです。この(ぜん)(おし)えはお(しゃ)()さまに(はじ)まり、二十八()()(だい)(だる)()によってインドから(ちゅう)(ごく)へと(つた)えられました。その()()から()()へと()(しん)(でん)(しん)(みゃく)(みゃく)(つた)わり(こん)(にち)(いた)ります。(ぜん)(ぼん)()ディヤーナまたは()()ジャーナの(おん)(しゃ)である(ぜん)()(りゃく)()で、(しん)(しん)(あん)(てい)させて調(ととの)えることを()()します。つまり、(みずか)らの(しん)(しん)(ほとけ)(しん)(しん)として調(ととの)えることです。()(ぜん)は、()調(ととの)え(調(ちょう)(しん))、(いき)調(ととの)え(調(ちょう)(そく))、(こころ)調(ととの)え(調(ちょう)(しん))、(ほとけ)として()きるための()(ほん)となる(しゅ)(ぎょう)です。お(しゃ)()さまは()(ぜん)によって(ぶっ)()となり、(ぶっ)()として(しょう)(がい)にわたり()(ぜん)(しゅ)(ぎょう)されました。それにならい(そう)(とう)(しゅう)ではお(しゃ)()さまと(おな)じくただひたすら()(ぜん)すること(()(かん)()())を(だい)()にしています。あてもなく()(ぜん)するのではなくて(いま)ここで(ほとけ)として()(ぜん)すること、いつか(さと)るために(しゅ)(ぎょう)するのではなくて(ほとけ)として(しゅ)(ぎょう)すること()(たい)(さと)りそのもの((しゅ)(しょう)(いっ)(とう))であるということです。(そう)(とう)(しゅう)(めい)(しょう)(ちゅう)(ごく)(ふた)()(ゆう)(めい)(ぜん)(そう)()(まえ)()(らい)します。(そう)(ちゅう)(ごく)(ぜん)(たい)(せい)(しゃ)である(そう)(けい)()(のう)から、洞は(ちゅう)(ごく)(そう)(とう)(しゅう)(かい)()である(とう)(ざん)(りょう)(かい)から()づけられました。お(しゃ)()さま、()(だい)(だる)()(そう)(けい)()(のう)(とう)(ざん)(りょう)(かい)、これらの()()たちの(なが)れを()んだ(ぜん)(おし)えを、(かま)(くら)()(だい)()(ほん)(つた)えられたのが(どう)(げん)(ぜん)()であり、その(ぜん)(おし)えを(そう)(とう)(しゅう)として()(ほん)(ひろ)められたのが(けい)(ざん)(ぜん)()です。(そう)(とう)(しゅう)では、お(しゃ)()さま((ぶっ)())と、(どう)(げん)(ぜん)()((こう)()(おし)えを(つた)えた()())と、(けい)(ざん)(ぜん)()((たい)()(おし)えを(ひろ)めた()())を、(いち)(ぶつ)(りょう)()((さん)(ぞん)(ぶつ))の()(ほん)(ぞん)として(けい)()しています。

三事を調える

  • 調(ちょう) (しん)()調(ととの)える) 
  • 調(ちょう) (そく)(いき)調(ととの)える) 
  • 調(ちょう) (しん)(こころ)調(ととの)える)

(こま)(ざわ)(だい)(がく)(こう)(とう)(がっ)(こう)(かく)(きょう)(しつ)(しょう)(めん)(かか)げられているこの(しょ)は、(だい)(だい)(こう)(ちょう)(あが)()()(けん)(せん)(せい)(ふで)によるものです。この(みっ)つの(こと)()は、()(ぜん)(たい)(けい)()した(てん)(だい)()()【※1】が()いた()(ぜん)(こころ)()です。 【※1】(てん)(だい)()()(五三八~五九八)…()(ぜん)()(かん)として(たい)(けい)()し、(いっ)(さい)(きょう)(おし)えを()()(はっ)(きょう)(せい)()して、その()(ぶっ)(きょう)()(そう)()(だい)(えい)(きょう)(あた)えたので(とう)()(しょう)(しゃ)()とも(しょう)され、(ずい)(よう)(だい)から()(しゃ)(しょう)(ごう)(たまわ)ったので()(しゃ)(だい)()、また(てん)(だい)(しゅう)(かい)()なので(てん)(だい)(だい)()(しょう)される。(どう)(げん)(ぜん)()()(こん)(かん)(ぜつ)(じん)(ぶつ)として(すう)(けい)した。

行学の心得る得の学べ行く

一、()(りょく)(おう)(せい)にし(しゅう)(ちゅう)(りょく)(たか)めよう

二、(もく)(ひょう)(さだ)(にち)(にち)()()()(りょく)(つづ)けよう

三、(みずか)らを(しん)(みずか)らを(きび)しく(りっ)しよう

四、()(ゆう)(けい)(あい)(れい)()(ただ)しくしよう

(かく)(きょう)(しつ)(しょう)(めん)(かか)げられているこの(よっ)つの「(ぎょう)(がく)(こころ)()」は、(だい)(だい)(こう)(ちょう)(わか)(ばやし)(げん)(てん)(せん)(せい)(くん)()です。また1966年(そう)()(ほん)(こう)(すい)(そう)(がく)()は、(わか)(ばやし)(こう)(ちょう)から(さず)かった()(くん)である、「(れん)()(えい)(こう)への(おう)(どう)(なり)」(()()()(みち)(れん)(しゅう)()(かさ)ねが(かなら)(おお)きな(せい)()となって(あらわ)れるという()())を(いま)(たい)(せつ)(かつ)(どう)しています。(すい)(そう)(がく)()(みな)さんは「(うつく)しいもの・(ととの)ったものへの(かん)(せい)(みが)く」「(れん)(しゅう)()(しょ)への(かん)(しゃ)」という()()()めて、()()(れん)(しゅう)()(がい)にも、(まい)(つき)の「(ぜん)(こう)(しゃ)(せい)(そう)」、(ねん)(かん)()()の「()(いき)(せい)(そう)」を(おこな)っています。

礼拝

(らい)(はい)は、(がっ)(しょう)して((りょう)()()わせて)(てい)()する((あたま)()げる)ことで、(あい)()(さい)(じょう)(けい)()(あらわ)(ぶっ)(きょう)()(ほう)です。もともとは()(だい)インドの(あい)(さつ)でしたが、(こん)(にち)でも(ぶっ)(きょう)(こく)(ちゅう)(しん)(らい)(はい)(ぶん)()(つた)えられています。(ほん)(こう)では(ぜん)(こう)(しゅう)(かい)(ほう)(よう)や、(こう)(ない)(かく)(しょ)にお(まつ)りしている(ほとけ)さまを(おが)(さい)など、(らい)(はい)()(かい)(おお)くあります。(みぎ)()(ほとけ)(ひだり)()(おのれ)(あらわ)し、それが(ひと)つとなった(がっ)(しょう)()()(ぶっ)(しょう)(あらわ)れた姿(すがた)です。また(あい)()(らい)(はい)することは、(あい)()(ぶっ)(しょう)(みと)めて(そん)(ちょう)し、(あい)()(けっ)して(かろ)んじないという(ぶっ)(きょう)(せい)(しん)(あらわ)します。

(こう)(ない)(ほとけ)さま

(かん)()(おん)()(さつ) … (げん)(かん)(かん)(のん)(どう)

(もん)(じゅ)()()()(さつ) … (おく)(じょう)()(ぜん)(どう)

(しゃ)()()()(ぶつ)(どう)(げん)(ぜん)()(けい)(ざん)(ぜん)() … (たい)(いく)(かん)(だん)(じょう)

()(ぞう)()(さつ) … (しょく)(いん)(しつ)(まえ)(なか)(にわ)

()()(てん) … 調(ちょう)()(じっ)(しゅう)(しつ)

()()()()(みょう)(おう) … (しん)(かん)のトイレ 

(はく)(さん)(みょう)()(だい)(ごん)(げん) … (しゅう)(きょう)()(けん)(きゅう)(しつ)))

南無

 ()()とは、(ぼん)()ナモの(おん)(しゃ)で、()()()(みょう)(ちょう)(らい)とも(かん)(やく)され、(あい)()への(さい)(じょう)(そん)(けい)(あらわ)し、また(あい)()()(ぶん)とが(ひと)つであることを()()する(こと)()です。(ぶっ)(きょう)()(いの)りの(こと)()として(もち)いられ、(しゅう)()()わず、(ぶっ)(ぽう)(そう)(さん)(ぼう)(はじ)めとして、(らい)(はい)する(ぶつ)(ぞう)(きょう)(てん)()()(めい)(しょう)(かん)して「()()〇〇」という(けい)(しき)(とな)えられます。インドやネパールの(あい)(さつ)として()られる「ナマステー」や「ナマスカール」も()()(あい)()への(けい)()(あらわ)し、()(げん)は「()()」と(おな)じです。

(かく)(しゅう)()(おも)なお(とな)

()()(しゃ)()()()(ぶつ) … (そう)(とう)(しゅう)(りん)(ざい)(しゅう) ()()(しゃ)()()()(ぶつ)()()します

()()()()()(ぶつ) … (てん)(だい)(しゅう)(じょう)()(しゅう)(じょう)()(しん)(しゅう) ()()()()()(ぶつ)()()します

()()(みょう)(ほう)(れん)()(きょう) … (てん)(だい)(しゅう)(にち)(れん)(しゅう) ()()=『(みょう)(ほう)(れん)()(きょう)』(『()()(きょう)』)に()()します

()()(だい)()(へん)(じょう)(こん)(ごう) … (しん)(ごん)(しゅう) ()()(こう)(ぼう)(だい)()(くう)(かい))に()()します 

()()(さん)(ぼう) … (かく)(しゅう)()(きょう)(つう) ()()(さん)(ぼう)(ぶっ)(ぽう)(そう))に()()します

()()(かん)()(おん)()(さつ) … (かく)(しゅう)()(きょう)(つう) ()()(かん)()(おん)()(さつ)()()します。

校門拝礼

(ほん)(こう)では(とう)()(こう)(さい)(こう)(もん)(がっ)(こう)()かって(はい)(れい)((いち)(れい))をします。これは(こう)(ない)(かく)(しょ)にお(まつ)りしている(ほとけ)さまへの(らい)(はい)()()と、(ぎょう)(がく)(つう)じて()(ぶん)()(しん)(そだ)てる(しゅ)(ぎょう)(どう)(じょう)でもある(がっ)(こう)という(かん)(きょう)と、(どう)(きゅう)(せい)(せん)(ぱい)(こう)(はい)(ふく)めて、そこで(やく)(わり)()たしている(さま)(ざま)(たち)()(ひと)(びと)への(れい)()(あらわ)()()があります。

仏教専修科

 (そう)(とう)(しゅう)(そう)(りょ)(よう)(せい)する(がっ)(こう)でもある(ほん)(こう)ならではのコースで、(しょ)(ぞく)する(せい)()(しゅう)(ない)(せい)()います。()(だん)(いっ)(ぱん)(せい)()(おな)じくクラスに(ざい)(せき)していますが、(ほう)()()()(ぜん)(どう)において、(ぶっ)(きょう)のより(せん)(もん)(てき)(がく)(しゅう)(そう)(りょ)としての(しゅ)(ぎょう)(おこな)っています。(おも)(かつ)(どう)としては、(がっ)(こう)(ぶっ)(きょう)(ぎょう)()(うん)(えい)(ぶっ)(きょう)(しゅ)()(がっ)(こう)(れん)(めい)(しょ)(ぎょう)()への(さん)()()(せき)(じゅん)(ぱい)((きょう)()(ほく)(りく)・その())などを(つう)じて、(ぶっ)(きょう)(そう)(とう)(しゅう)への()(かい)(ふか)めます。(しょう)(らい)(そう)(とう)(しゅう)(そう)(りょ)になることを()(ぼう)する(せい)()は、(ざい)(がく)(ちゅう)(しょ)(てい)(しゅ)(ぎょう)(しゅう)(りょう)すれば(そつ)(ぎょう)()()(かく)(しゅ)(とく)できます。また、(こま)(ざわ)(だい)(がく)には(ぶっ)(きょう)(がく)()があるため、(ほん)(こう)(ぶっ)(きょう)(きょう)()()ち、(ぶっ)(きょう)をより(ふか)(まな)んでみたいという、(そう)(りょ)ではない(いっ)(ぱん)(せい)()(しゅう)(ない)(かつ)(どう)(さん)()することができますので、(ぶっ)(きょう)(じゅ)(ぎょう)(たん)(とう)(きょう)(いん)(ちょく)(せつ)()()わせください。

食事訓

(ほん)(こう)では、四()(かん)()(しゅう)(りょう)()(ぜん)(こう)(ほう)(そう)()わせて『()(かん)()』を(しょう)()してから(ちゅう)(しょく)(いただ)きます。()べることは()きることに(ちょっ)(けつ)しています。また、()(かた)()(かた)にも(つう)じることから、(ぶっ)(きょう)では(しょく)()をすることも(だい)()(しゅ)(ぎょう)(ひと)つなのです。

() (かん)()
(ひと)つには(こう)()(しょう)(はか)り、()(らい)(しょ)(はか)る。
この(しょく)()()()()がるまでの(けい)()(おも)いを()せて、
(さま)(ざま)(ひと)(びと)(はたら)きや(しょく)(ざい)となった(いの)()(かん)(しゃ)して
いただきます。


(ふた)つには(おのれ)(とく)(ぎょう)の、(ぜん)(けつ)(はか)って()(おう)ず。
この(しょく)()をいただくのに(あたい)するような、
(ただ)しい()(かた)ができているかどうかをよく(はん)(せい)してから
いただきます。


()つには(しん)(ふせ)(とが)(はな)るることは、(とん)(とう)(しゅう)とす。
この(しょく)()によって(ぶつ)(どう)(しゅ)(ぎょう)(はげ)み、
(ぼん)(のう)(さん)(どく)(とん)(よく)(しん)()()())を(しず)めるために
いただきます。


()つには(まさ)(りょう)(やく)(こと)とするは、(ぎょう)()(りょう)ぜんが(ため)なり。
この(しょく)()(しん)(しん)(けん)(こう)(たも)つことが(もく)(てき)であり、
(ぼう)(いん)(ぼう)(しょく)をせずに(ほん)(とう)(ひつ)(よう)(ぶん)だけを
ありがたくいただきます。


(いつ)つには(じょう)(どう)(ため)(ゆえ)に、(いま)()(じき)()く。
この(しょく)()(つう)じて(ぶつ)(どう)(たっ)(せい)することを()(そう)とし、
(わたし)()(かた)()きとし()ける(もの)()(どく)となることを(ねが)っていただきます。

)

(てん)()(きょう)(くん)(どう)(げん)(ぜん)(

法要

() () (さん) (ぶつ) ()(しん) (ぜん) (ほう) (こく)

  • 四月  (ごう)(たん)()(はなまつり)(しん)(ぜん)(ほう)(こく)(にゅう)(がく)(しき)
  • 七月  ()()(ぼん)()(みたままつり)
  • 九月  (りょう)()()
  • 十月  (だる)()()
  • 十二月 (じょう)(どう)()
  • 二月  ()(はん)()
  • 三月   (しん)(ぜん)(ほう)(こく)(そつ)(ぎょう)(しき)

(どう)()((こま)(ざわ)(だい)(がく)(そう)(ちょう)) ()(しゃ)((こま)(ざわ)(だい)(がく)(しょく)(いん))

(ほう)(よう)(はい)(やく)((こま)(ざわ)(だい)(がく)(こう)(とう)(がっ)(こう)(ぶっ)(きょう)(せん)(しゅう)())

法要差定

(そう) (とう) (しゅう)(ほん) (ぞん) (じょう) () 」 )

一、 (どう) () (にゅう) (どう)

一、 (ほん) (ぞん) (らい) (はい)

一、 (けん) (こう) (けん) ()

一、 (ねん) (こう) (ほう) ()

一、 () (どう) (さん) (ぱい)

一、 (はん) (にゃ) (しん) (ぎょう)

一、 () (こう)    

一、 () (どう) (さん) (ぱい)

一、 (どう) () 退(たい) (どう)

一、 (ほん) (ぞん) (らい) (はい) 

はなまつりの言葉

桜の花が咲き誇り、私たちは今年も花祭の日を迎えました。この花祭は、お釈迦さまのお誕生をお祝いするための法要です。今から約二千五百年程前の古代印度で、迦毘羅城を治める釈迦族の悉陀太子が、藍毘尼の花園に誕生されました。その人こそ、後に出家して悟りを開き、仏陀となられたお釈迦さまです。今日、この花御堂の中にお祀りされたお釈迦さまのお誕生のお姿は、右手で天を指し、左手で地を指しておられます。これは「天上天下唯我独尊」、つまり私たちは誰もがすばらしい仏の心を持っている、というお釈迦さまの教えを表しています。人は皆、他者を思いやる慈悲の心と、正しく生きる智慧の心を持っています。この慈悲と智慧は、私たちに本来具わっている仏の心です。その仏の心を発揮して、慈悲を行い、智慧を学び、仏の自覚をもって生きることが大事なのだとお釈迦さまは示されました。本日、花祭の法要を行い、お釈迦さまのお誕生をお祝いして、その徳を称え、その教えを思い出して、私たちは心を新たに致します。そして、仏教を建学の理念とする駒澤大学高等学校の生徒として、日々の生活の中で、慈悲を行い、智慧を学び、仏の生き方を実践する行学一如を体現していくことを、仏・法・僧の三宝の御前に誓います。

みたままつりの言葉

 青葉の美しい季節となり、私たちは今年も御霊祭の日を迎えました。お盆が近づくにつれ、関わりのあった今は亡き人々が懐かしく思い出され、特に新盆を迎える方には故人への想いが一層募ることと思います。このお盆の行事は、お釈迦さまの弟子の目連尊者が、亡き母の冥福を祈る方法を、お釈迦さまに尋ねたことに由来します。お釈迦さまは「あらゆる存在の幸せを願う修行僧たちの、修行の期間が明ける七月十五日に、真心を込めて食事を供養して、その善行の功徳を亡き母の冥福のために回向してもらいなさい。」と目連尊者に説かれました。私たちはこのように亡き人に代わって徳を積み、その功徳を亡き人へと手向けて、冥福を祈ることができます。今を生きる私が善い行いをすることは、そんな私をこの世に送り出すために過去に存在した全てのご先祖さま方にとっても功徳となるのです。この追善供養の教えからお盆の習慣が始まりました。お盆を迎えるにあたって、私たちの背景には今は亡き大勢の人々が存在したことに想いを馳せ、感謝の祈りを捧げます。そして、仏教を建学の理念とする駒澤大学高等学校の生徒として、日々の生活の中で、慈悲を行い、智慧を学び、行学一如を体現していくことを、仏・法・僧の三宝の御前に誓います。


(ほう) (よう) の () (らい)

はなまつり(降誕会・灌仏会・仏生会)

はなまつりは、お(しゃ)()さまの(たん)(じょう)(いわ)(ほう)(よう)です。()(ほん)では、ちょうど(さくら)(はな)()(せつ)であるため(はな)(まつり)()ばれますが、(せい)(しき)には(ごう)(たん)()(ぶっ)(しょう)()(かん)(ぶつ)()とも()います。お(しゃ)()さまは(らん)()()(おん)(ルンビニーの(はな)(ぞの))の()(ゆう)(じゅ)(アショーカの())の(もと)で四月八日に(たん)(じょう)されました。(ぶつ)(でん)では、()まれたばかりのお(しゃ)()さまが、「(てん)(じょう)(てん)()(ゆい)()(どく)(そん)」と(とな)えると、(りゅう)(てん)から(かん)()(あめ)()らして(しゅく)(ふく)したといいます。その(でん)(せつ)にちなみ、はなまつりでは(はな)()(どう)(なか)(たん)(じょう)(ぶつ)(ぶつ)(ぞう)をお(まつ)りし、(あま)(ちゃ)(そそ)いでお(まい)りします。(ほう)(よう)()(ほん)(かん)(げん)(かん)ロビーに(はな)()(どう)(せっ)()されますので、お(しゃ)()さまの(たん)(じょう)(ぶつ)(あま)(ちゃ)(そそ)いでご(さん)(ぱい)ください。

みたままつり(盂蘭盆会)

みたままつりは、(いま)()()(えん)()(えん)(ひと)(びと)(めい)(ふく)(いの)るための(ほう)(よう)です。(いっ)(ぱん)にはお(ぼん)()ばれていますが、(せい)(しき)には()()(ぼん)()()います。()()(ぼん)()オーダナ(ご(はん))の(こう)()オーランの(おん)(しゃ)で、(ぼん)(しょく)()()(しょっ)()のことです。()()(ぼん)()は、お(しゃ)()さまの()()(もく)(れん)(そん)(じゃ)(マウドガリヤーヤナ)が()(はは)(めい)(ふく)(いの)(ほう)(ほう)をお(しゃ)()さまに(たず)ね、(なつ)(あん)()((しゅ)(ぎょう))が()わる七月十五日に(なか)()(しゅ)(ぎょう)(そう)たちに(しょく)()()(よう)して、その(ぜん)(ぎょう)()(どく)()(はは)(めい)(ふく)のために()(こう)してもらった(つい)(ぜん)()(よう)()()()(らい)します。(ほう)(よう)()(ほん)(かん)(げん)(かん)ロビーの(かん)(のん)(どう)でお(しょう)(こう)できますので、()(えん)()(えん)()(たま)(しの)んでご()(ゆう)にご(さん)(ぱい)ください。

両祖忌

(りょう)()()は、()(ほん)(そう)(とう)(しゅう)(こう)()(どう)(げん)(ぜん)()(たい)()(けい)(ざん)(ぜん)()(りょう)()さまのご(めい)(にち)(しの)(ほう)(よう)です。(どう)(げん)(ぜん)()(けん)(ちょう)(ねん)(一二五三)八月二十八日に、(けい)(ざん)(ぜん)()(しょう)(ちゅう)(ねん)(一三二五)八月十五日に()(じゃく)されましたが、どちらも(たい)(よう)(れき)では九月二十九日になるので、この()(りょう)()さまのご(めい)(にち)として、(そう)(とう)(しゅう)()(いん)では(りょう)()()(ほう)(よう)(いとな)まれます。

達磨忌

 (だる)()()は、(だる)()(だい)()のご(めい)(にち)(しの)(ほう)(よう)です。(だる)()(だい)()(ぼん)(めい)ボーディ・ダルマと()います。お(しゃ)()さまから二十八(だい)()()()で、インドから(ちゅう)(ごく)へと(わた)ってお(しゃ)()さまの()(ぜん)(つた)えました。(ちゅう)(ごく)では(ぜん)(しゅう)(しょ)()とされ、(えん)(がく)(だい)()()(だい)(だる)()(だい)()(しょう)(しょう)されます。(すう)(ざん)(しょう)(りん)()での(めん)(ぺき)()(ねん)(九年間ひたすら(かべ)(めん)して()(ぜん)(しゅ)(ぎょう)したこと)の(いつ)()(ゆう)(めい)です。(だる)()(だい)()(ぜん)(おし)えは(へき)(かん)()ばれ、(もく)(もく)(かべ)()かい、ただひたすら()(ぜん)すること、つまり()(くつ)(つく)って()()(しゅ)(ちょう)したり、()(にん)(ひょう)()()(まわ)されたりせずに、(いま)すべき(ただ)しいことをただ(だま)って(じっ)(こう)することが、(ぶつ)(どう)(しゅ)(ぎょう)においては(なに)よりも(だい)()であることを(しめ)しています。

成道会

(じょう)(どう)()は、お(しゃ)()さまが(さと)った()(いわ)(ほう)(よう)です。お(しゃ)()さまは、(ぶっ)()()()(ブッダガヤー)の()(だい)(じゅ)(アシュヴァッタの())の(もと)(しん)(じん)調(ととの)えて、十二月一日から八日の()(がた)にかけて()(ぜん)をして(ぶっ)()となりました。(ぶつ)(でん)では、お(しゃ)()さまは(さと)った(とき)(だい)()()れて「(われ)(だい)()()(じょう)(どう)()(じょう)(どう)す」と()べたと(つた)わります。これはお(しゃ)()さまが(きゅう)(きょく)(しん)()である(えん)()(さと)って(じん)(せい)()(こく)(ふく)したことを(しめ)しています。お(しゃ)()さまはその()鹿(ろく)()(おん)(サールナート)で(しょ)(てん)(ぼう)(りん)((さい)(しょ)(せっ)(ぽう))を(おこな)い、そこから(ぶっ)(きょう)(はじ)まったのでした。

涅槃会

()(はん)()は、お(しゃ)()さまのご(めい)(にち)(しの)(ほう)(よう)です。()(はん)とは(ぼん)()ニルヴァーナの(おん)(しゃ)で、()()()された(じょう)(たい)()()します。そこから、(ぼん)(のう)()()えた(さと)りの(じょう)(たい)、またはお(しゃ)()さまの(いのち)()()えて()くなったことを()()するようになりました。お(しゃ)()さまは(さい)()()(ぎょう)((しゅ)(ぎょう)(たび))の()(ちゅう)で「()()() (ほう)()()」を()くと、(じゅん)()(チュンダ)の(しょく)()()(よう)()けた(あと)()()()(じょう)(クシナガラ)の、()(ほう)()()(そう)(じゅ)(()(ほん)のサーラの())が()えた()(しょ)(さい)()(むか)え、(なげ)(かな)しむ()()たちに「(はち)(だい)(にん)(がく)」の(おし)えを(のこ)して二月十五日の(よる)(にゅう)(めつ)されました。

臘八摂心

(ろう)(はつ)とは(ろう)(げつ)(十二月)の八日間のこと、(せっ)(しん)とは(こころ)(おさ)めて()(ぜん)することです。お(しゃ)()さまが十二月一日から八日にかけて、()(だい)(じゅ)(もと)()(ぜん)をして「(えん)()」を(さと)り、(じょう)(どう)((しゅ)(ぎょう)(さと)りを(じょう)(じゅ))されたという()()にちなみ、()(ほん)(ぜん)(でら)では、(まい)(とし)、この()()に八日間の()(ぜん)(じょう)(どう)()(ほう)(よう)(しゅ)(ぎょう)します。(こま)(ざわ)(だい)(がく)(こう)(とう)(がっ)(こう)でも、それにならって(ぜん)(こう)(せい)()(ぜん)(きょう)(しょく)(いん)()(ぼう)(しゃ)(たい)(しょう)に、(まい)(とし)、十二月の(さい)(しょ)(いっ)(しゅう)(かん)(ゆう)()(ぶっ)(きょう)(せん)(しゅう)()(そつ)(ぎょう)(せい)(そう)(とう)(しゅう)()(いん)および(そう)(とう)(しゅう)(そう)(ごう)(けん)(きゅう)センターの(そう)(りょ)(かた)(がた)のボランティアのもと、(たい)(いく)(かん)(ろう)(はつ)(せっ)(しん)(しゅ)(ぎょう)しています。

本山拝登

)(そう)(とう)(しゅう)(だい)(ほん)(ざん)は、(どう)(げん)(ぜん)()(ひら)かれた(えい)(へい)()と、(けい)(ざん)(ぜん)()(ひら)かれた(そう)()()です。(こま)(ざわ)(だい)(がく)(こう)(とう)(がっ)(こう)では、(まい)(とし)(ほん)(こう)(げん)(てん)でもあるこの(りょう)(だい)(ほん)(ざん)(はい)(とう)して、(りょう)()さまに(さん)(ぱい)し、(ぜん)(しゅ)(ぎょう)(たい)(けん)します。(りょう)(だい)(ほん)(ざん)には、(すべ)ての()きとし()ける(もの)(しあわ)せを()()(いの)りながら、(ぞく)()(はな)れて(きび)しい(しゅ)(ぎょう)(はげ)んでいる(うん)(すい)((ぜん)(でら)(しゅ)(ぎょう)(そう))の(かた)(がた)(じっ)(さい)におられます。その(なか)にほんの(ひと)(とき)(じゃ)()させて(いただ)くのだということを(わす)れず、また(わたし)たちを(ぜん)()()()れて(くだ)さっていることに(かん)(しゃ)して、(しん)()()()ちで(ほん)(ざん)(はい)(とう)(のぞ)みましょう。